高杉晋作が愛玩したもので、石質は通称「長州石」と呼ばれるもの。紫檀の台座底部には、「元治甲子六月求之 東行生」の墨書がある。
萩藩士井原主計の入京拒否を受け、諸隊を始めとする激徒を中心に、萩藩世子の率兵上京(「進発論」)が再び叫ばれ始める。この沈静化に苦慮した萩藩政府は、文久四年(1864)正月二十四日に「進発論」の急先鋒である来島又兵衛説得のため、高杉晋作を抜擢した。
しかし、晋作は来島説得に失敗し、在坂の桂小五郎・久坂元瑞・宍戸久郎兵衛の何れか呼び返し、京都情勢の直接懇論によって「進発論進発論」を抑制することを考え、脱藩上坂した。
結局、在坂の宍戸・久坂が帰国し「進発論」抑制を働きかける事に決まったが晋作は役目を失うと共に、藩命を破った晋作に対する誹謗中傷、汚名嫌疑が日増しに強くなり、為す術もなく術もなく帰国を余儀なくされる。
藩に戻った晋作は、元治元年(1864)三月二十九日に、脱藩の罪で野山獄に投獄された。
この「愛玩石」は、元治元年六月、野山獄の獄中、もしくは家居謹慎中(六月二十一日以後)に求めたもの。
晋作はこの石を修養石として独り静に日々を送ったと推測する。