紙本墨書 縦41.4㎝ 横22㎝
文久四年(1864)正月21日、参与諸侯の勢いを目の当たりにして桂小五郎(木戸孝允)は、国許で再沸騰する率兵上京(「進発論」)を牽制するため、萩藩政府に自重を促した。
「久坂并奇兵隊登場等は大失策」であり、在坂の「穴翁(穴戸久郎兵衛)も登場之一条は甚不同意」であることを伝えている。
さらに、萩藩政府の上層部が権力を保持しなくては「各々名々勝手次第」となり、「下々権有之候ては上を軽蔑仕候」と述べ、再沸騰する諸隊に振り回される萩藩の意思決定機能にも苦言を呈した。
この頃、桂及び久坂は「割拠論」を唱えており、拙速な率兵上京(「進発論」)に明確な反対姿勢を表明している。
しかし、萩藩政府は。二月四日に萩藩主父子・六卿が出席する会議で「御進発一条」について評議した結果、同月十五日に毛利出雲(吉敷毛利家)へ、「早々出足京都差登」を命じた(後に国司信濃へ交代)。
また、同月二十四日には、来島又兵衛に対して遊撃隊二〇〇人とともに上坂を命じており、萩藩政府が井原主計の入京不可を景気に、再び率兵上京(「進発論」)を選択したことがわかる。