櫻山招魂場碑

有栖川宮熾仁親王 篆額、山県有朋撰文

櫻山招魂場碑

明治26年(1893年)2月に建立されました。明治5年に明治天皇西国巡幸の際、侍従を派遣された祭祀者を弔慰された光栄と感激をのべ、慶応2年の小倉戦争など、奇兵隊の略歴が記されています。奇兵隊、報国隊殉国の士の功績を不朽にするためのものです。

今上即位之五年車駕西巡抵赤馬関特 勅侍臣就我奇兵隊招魂場弔之賚以金幣有盡忠致死 朕追感殊深之語鳴呼死者之榮可謂極矣初我長藩主忠正公首唱勤王欲大有爲文久癸亥設奇兵隊遠邇傅聞慷慨義烈之士爭来魔募而高杉晋作實為之経書萌年甲子輿外艦戦千前田壇浦以振起士気乙丑有縛堂大田之事以定内証丙寅有門司田浦之役以平小倉戊辰春先天下兵破東軍於畿旬而越後會津諸役皆建殊功當是時奇兵隊之名高乎天下実先是元治甲子正月同志相謀為隊兵戦死者築招魂場於櫻山三條公以下五卿去京在此者臨焉翌年八月祠宇告成隊纏管山内梅三郎輿余輩修祭儀以落之爾後毎有戦死者必加祭焉支封長府侯亦勤王事其藩士有報國隊毎興我隊教力立功其死者初祭於旭陵後亦暴於此明治壬申醸集金敷千圓乙亥官又賜金若干拉充祭賢春秋祭祀萬世無魔夫奇兵隊大率起於草葬市井間而穫貴絞袴子弟不奥焉其所稀為先輩長者皆出於吉田松陰先生之門先生於幕府盛時而専存心王室以奨働子弟故其子弟興起一以明大義正名分為己任冒百難而不辞榮進死而辱退生生爲國家千城死血食於千歳以荷天之寵難日忠正公面命耳提之所致然自非隊兵其人所悪有甚於死者語能至是哉鳴呼何其肚也頃
某等共議建碑於場中以表其功使余銘之余錐不文亦嘗奥死者同其隊伍終始如一誼不可辞也乃載筆作之銘銘日王室式微穫臣蹴雇.三百諸侯爾端首鼠濁我長公心在王所奇兵成隊赴赴其武視死如鋳臨戦忘身国家中興其命維新輪英祠宇葱祭其神寵光自夫萬古無沢

明治廿六年二月
陸軍大将從二位勲一等伯爵山縣有朋撰文
陸軍大将大勲位 熾仁親王 篆刻額
  從五位 長■書 井亀泉刻