御祭神 三九一柱
吉田松陰 | 一柱 |
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高杉晋作、久坂義助、入江九一、吉田稔麿、河上弥一、 | |
白石正一郎、白石廉作、山県有朋 等 長州藩騎兵隊士 | 二五六柱 |
泉十郎、熊野直助 等 豊浦藩報国隊士 | 九六柱 |
膺懲隊、八幡隊、遊撃隊、整武隊、清末藩育英隊等諸隊士 | 三八柱 |
文久3年(1863年)10月、東行高杉晋作の発議により、殉国の志士の神霊を祀る招魂場を築くことになり、12月騎兵隊が下関に転陣したため、候補地を下関に求めました。
文久4年:元治元年(1864年)正月23日、長州藩政府と協議し、新地岡の原、通称桜山を斎場に選びました。同年3月29日、来関中の、三条実美卿等五卿方、視察され社殿の必要性をときました。
慶応元年(1865年)8月3日、招魂場落成。
明治5年(1872年)8月20日、防長各所の招魂場の神霊をことごとく桜山招魂場に合祀、9月1日には下関旭陵にあった豊浦藩報国隊士の霊を合しました。
昭和34年(1959年)、吉田松陰没後百年祭にあたり、山縣有朋等23柱を追祀して、神霊は391柱となりました。
この招魂場のもつ尊い意味は、偉大な指導者吉田松陰から奇兵隊小者弥吉といった名もない者にいたるまで等しく祀られていることで、整然と立ち並ぶ霊標の姿は、奇兵隊における武士、町人の身分制を越えた新しい時代への理念を伝え、胸を打つ者がある。
この地は奇兵隊の調練場跡でもあり、招魂場となって以後、桜を植えたことから、桜山と呼ばれるようになったもので、下関市内の数多い維新史跡の中でも、ことに重要な意味をもつ聖地ということができます。